<町の遺跡> 探訪
遺跡(ここでは周知の埋蔵文化財包蔵地を含む)は、「遺構」と「遺物」という二つの要素で構成される。前者は例えば古墳や住居跡など「遺された構造物」、後者は石器や土器など「遺された物」、である。それは次のように考えることができる。たとえば一個の川原石は、それのみがぽつんとあるだけでは遺構とも遺物とも認めがたいものだが、複数の石が明らかに人によって集められていれば、それはれっきとした「遺構」である。そしてそこから取り上げられた石は、それ以後、「遺物」となる。つまり、遺構とは当時の大地の上に人間が与えた何らかの影響の結果であり、遺物は遺構の構成要素の一部が切り離されて可搬の状態となったもの、といえる。 遺跡は、ある遺構や遺物がどこに多くてどこに少ないか、どのように配置されているか、どんな形をしているか、などといったことを見せてくれる。それは当時の経済や、政治、文化、すなわち社会のあり方そのものの痕跡である。また、その地に暮らしていた人々が何を受け入れ、何を排除したか、という選択の結果でもある。そのように考えると、遺跡に見る遺構や遺物の姿とは、ある時代、ある社会の精神の営みが具体的な形となって表れたものにほかならない。そして私たちは、遺構・遺物のありようを通して、その奥にある当時の人々の心の世界をもかいま見ることができるのである。
≪老嶽古代祭祀遺跡≫
日本神道理念の最も古い姿で、立石は天っ神籠(あまっかむろぎ)、周辺の配石群は天っ岩座(あまっいわくら)の跡と言われています。農耕文化社会が始まった縄文時代後期から弥生時代、古墳時代を経て平安時代頃までの祭祀様式で、老岳信仰の祖形だと考えられます。 その後、老岳神社は戦国時代に天草五人衆の上津浦氏の守護神とされ、江戸時代以降は、山麓一帯の里人たちが猿田彦ノ神を祀りました。権六古墳
現時点では調査は行われていませんが、石室古墳ではないかと思われます。 権六とは地名で、古くからこの地域に居住する人によると、以前に剣などが発掘されていたと伝えられています。鬼塚古墳
須子 羨道(せんどう)の部分は破壊されているため、わずかに痕跡をとどめるのみですが、封土(盛土)の下に側壁と天井の架石が現存します。6世紀ごろの横穴式石室と推定され、周りの畑から須恵器の破片、付近の海岸から石器類が発見されています。朝鳥古墳
大浦 盛土の代わりに礫(れき)をもって長方形に積みあげた集積墓で、古墳時代末期のものと推定されています。台田古墳
1号古墳は直径約7mで、2号古墳は南北に1.5m、東西に6mの円形塚です。長さ2mの板石や積み石があらわになっており、未発掘ですが、横穴式石室と考えられます。竹島古墳群
竹嶋は大浦港の沖、北に約250mにある周囲約4kmの小島で、南側の丘陵には6基の円墳があり、中央の丘陵にも古墳らしいものが1基あると思われます。 3号墳は、東西11m、南北8mの楕円形で、現存するものでは、高さは1.5から2m、石室は奥行き1.75m、幅は奥壁側で1.72m、入口側で1.68mとほぼ正方形に近く、床面は直径2~3cmの円礫を敷いてあります。荒汐古墳
神の元古墳
前島古墳
釘島陸越古墳
釘島龍崎古墳
本当の浦古墳
南蛮寺跡 上津浦城跡 妙楽寺跡 唐津武士の墓 五輪塔 五輪塔